世界のバイクをリードする国産4メーカーの歴史と特徴を解説する当コーナー。ラストは名実ともにトップメーカーである「ホンダ」の登場だ。
本命は最後にやってくる
ホンダの前身である本田技術研究所が開設されたのは戦後間もない1946年。創業者は、今や立志伝中の人物である本田宗一郎だ。意外にも創業年は4メーカーで最も遅いが、一気呵成に世界一のバイクメーカーにまで登りつめた。この功績は、やはり本田宗一郎の並外れたアイデアと実行力抜きでは語れない。
宗一郎は、静岡県の高等小学校を卒業した後、東京の自動車修理工場「アート商会」に入社し、自動車修理の経験を積んだ。1928年、その実力が認められ、浜松で独立するに至る。モノづくりを志し、1939年には「東海精機重工業株式会社」を創業。苦心の末、ピストンリングを製造するも戦争に突入してしまい、空襲や地震で工場が倒壊してしまう。
戦後、心機一転して設立されたのが本田技術研究所だった。宗一郎は、旧陸軍が所有していた無線機の発電用エンジンを自転車の補助動力にすることを発案。遠くへ買い出しに行く妻を思い出したことが発案の契機だった。約500基あったエンジンを自転車用補助エンジンにつくり変えて売り出したところ注文が殺到。その後、自社製エンジンの開発に着手し、ホンダブランドの初号機となったのがA型エンジンだ。
1948年、本田技研工業株式会社が創立。従業員34人、資本金100万円という浜松の小さな町工場だった。
創業者の本田宗一郎氏は、1906年、静岡県生まれで、1991年没。写真は1971年、鈴鹿製作所二輪車生産累計1000万台達成記念のワンカット。
ホンダの名を初めて冠した製品が、1948年に市販化された「ホンダA型自転車用補助エンジン」。空冷2ストローク単気筒50ccで、最高出力は1psだ。
A型エンジンは、クランクケース側面にロータリーディスクバルブとキャブレターを装着するなど構造が画期的。特許を取ったクラッチ兼用の手動式ベルト変速装置も独自性に富む。
製法も実にホンダらしい。当時のホンダは町工場の規模だったが、コストがかかり大工場が行うダイキャスト鋳造にこだわったのだ。後にホンダ製品の特徴となる先進性と創意工夫が既に最初の製品から込められていた。
マン島へ日本初参戦、世界のホンダへ
翌1949年8月、4メーカーでは最も早い完成車「ドリームD型」をリリース。ホンダのキャッチフレーズは、「The Power of Dreams」だが、創業初期から“夢”にこだわり続けてきたメーカーと言える。
ドリームD型は、一般的な鋼管フレームに対し、鋼板をプレスしたチャンネルフレームで生産性を考慮した。また気軽に乗れるように、クラッチ操作不要でギヤチェンジができるシステムを採用。シフトペダルを左足で前に踏むだけで1速、足を離せばニュートラルに戻り、かかとで後ろに踏めば2速に入る仕組みだ。こうした半自動的なクラッチシステムを持つバイクは日本初だった。
補助エンジンから車体まで全てを生産したC型を経て、初の本格バイク、ドリームDが登場。一見クラッチレバーに見える左手のレバーは、前輪ブレーキレバーで、半自動的なクラッチが特色だった。空冷2スト単気筒98ccで、最高出力は3ps。
さらに1951年には、初の4ストローク車である「ドリームE型」が登場する。4ストOHVエンジンは146ccで5.5psを発生。当時リッターあたり20~30psと言われていたバイク用4ストエンジンを大きく上回るリッターあたり38psの高性能を示した。ホンダが4ストメーカーへ転換する契機となった1台だ。
ドリームE型。当時、2ストの騒音や白煙が問題になり、ホンダは今後4ストエンジンが必要になると判断。D型のフレームに、同社初の4ストロークエンジンを搭載した。「2ストのヤマハ」に対し、「4ストのホンダ」として名を馳せていく。
このドリームE型をベースとしたレーサーで、ホンダは海外レース初出場を果たす。1954年2月、ブラジルで開催されたサンパウロ国際オートレースに初めて参戦し、22台中13位で完走。世界とのレベルの違いを見せつけられたが、宗一郎は逆に発奮。翌月、有名な「マン島出場宣言」を発することとなる。
当時、バイクは海外ブランドの独壇場。技術的に未熟な日本の一企業が、権威あるマン島TTレースに出場し、世界の名門を打ち負かすというのだから大胆不敵である。
しかし、本当にホンダはやってのけた。
宣言から5年後の1959年、マン島TTレースに初挑戦し、4台の完走に成功。さらに挑戦を続け、参戦3年目の1961年、ついに初優勝を成し遂げる。しかも125cc、250ccクラスともに1~5位を独占する快挙。また、同年の世界GPでも両クラスのメーカータイトルを獲得。世界中にホンダの名を知らしめた。
なお1964年には、初の4輪車を発売した直後、F1世界選手権に初参戦。日本メーカーでは初のF1出場となった。
1959年、世界GPに組み込まれていたマン島TTで、ホンダの谷口尚巳+RC142が初出場で6位入賞の快挙。ロードレース世界選手権で日本人と日本製バイクが初めて獲得したポイントとなった。
世界を変革したスーパーカブ、CB750フォアが登場
この間、市販車としては1958年にスーパーカブC100が誕生。ドリームDで挑戦した半自動クラッチの進化版として自動遠心クラッチを採用。宗一郎が言う『蕎麦屋の出前のお兄ちゃんが、片手で乗れるクルマ』をまさに実現した。
1958年8月に発売された初代スーパーカブのC100。世界で愛されるカブシリーズの原点となった。モペッドでもなく、スクーターでもない斬新なデザインも特徴だ。初代はOHVを採用していた。
国内外でスーパーカブは大ヒットを飛ばす。実用モデルや小排気量車で存在感を示すホンダだったが、大排気量の高性能スポーツモデルでは今だ外国車に太刀打ちできず、トライアンフをはじめとする欧州車の独壇場だった。
このジャンルでもナンバー1となるべく、ホンダが1969年に放った決定打がCB750フォアだ。
実質的な市販量産バイクとして世界初の直列4気筒は、当時最強の67psをマークし、最高速は200km/hに到達。油圧式ディスクブレーキも世界初で、先進的なメカを満載していた。
1969年4月に北米で販売開始して以来、爆発的にヒット。世界にホンダと日本車の実力が轟くことになった。
2気筒が主流の時代に、4気筒で登場したCB750フォア。世界GPのマルチシリンダー化でパワーを追求した技術が活用されている。圧倒的な動力性能と威風堂々とした車格が大反響を呼び、初年度に1.7万台、以降も毎年6~8万台が生産された。国内でも販売され、「ナナハンブーム」が巻き起こっていく。
トレンドの4気筒は、ミドルクラスにも波及。1974年12月には、CB400フォアが登場した。市販車初の4in1マフラーが美麗で、カフェレーサーのテイストも盛り込んだ。’75年、国内に導入された中型限定2輪免許で乗れる唯一の4気筒車として人気を博した。
直4の新旗艦、エフとアールがデビュー
1970年代、ライバルの攻勢は激しくなり、CB750フォアも販売面やレースで劣勢を強いられていく。次世代の旗艦が求められる中、ホンダは75年に日本初のリッターバイクであるGL1000をリリース。さらに欧州で人気の耐久選手権にワークスレーサーのRCBを参戦させ、「無敵艦隊」と呼ばれるほどの強さを誇った。
その技術とノウハウを市販車に反映させた次期スーパースポーツこそCB900Fだ。
DOHC4バルブの直4をホンダで初めて搭載し、ハイパワーの95psを発生。軽量なアルミコムスターホイールや、可変減衰力のFVQダンパーなど足まわりも充実していた。アルミのセパレートハンドル、バックステップなど戦闘的な装備も特徴。日本市場には750が投入され、国内外でこれまた大ヒットを飛ばした。
1979年、海外にはCB900F、国内にはCB750F(写真)を投入。バランスの取れた軽量なシャーシや、洗練されたヨーロピアンスタイルも評判を呼んだ。
さらにホンダは、新たなステイタスシンボルとなるマシンの開発を進めた。その名もCB1100Rは、市販車レースでの勝利を目的に開発された公道レーサーとして1981年に投入。CB900Fをベースに排気量を1062ccにアップし、専用の高剛性フレーム、アルミ製ガソリンタンクやFRP製ハーフカウルなど、ワークス耐久レーサー=RS1000で培われた技術が存分にフィードバックされている。
空冷直4マシンの集大成がCB1100R。後のVFR750R(RC30)、RC213V-Sにも通じる元祖ロードゴーイングレーサーだった。当初は約1000台の限定販売だったが、83年型まで熟成された。
ホンダの次世代シンボル、フォースV4投入
こうした直4マシンの開発を進める一方で、ホンダは他社がマネできない次世代機の研究も行ってきた。その成果が水冷V型4気筒である。
V4エンジンは、高出力化に有利な上に、横幅がスリムのため、深いバンクも実現する。しかし新しいエンジン型式なので実用化まで多大な苦労を重ねた。
ホンダは世界GPから1967年に撤退し、1979年に復帰。その際、4ストロークV4搭載のWGPレーサー、NR500を引っ提げて参戦しており、V4のノウハウを蓄積していった。
市販V4第1号車は、82年4月のVF750セイバー、同マグナというツアラー指向の性格だったが、同年12月に本命のVF750Fがデビュー。ワークス耐久レーサー=RVF750などのベースとなり、TT-F1や鈴鹿8耐で他を圧倒する。
これらのレーサーに用いられた高回転+高出力を実現するカムギヤトレーン、片持ち式スイングアームなどの先進技術を反映した公道レプリカがVFR750R(RC30)。CB1000Rに続く究極のマシンとなる。
このように、80年代に入るとレースの世界では直4に代わってV4がホンダの顔になっていく。
世界GPに関しては1979年の復帰以来、4ストにこだわってきたが、苦戦。1982年から2ストに転換すると、最高峰の500クラスでライバルのヤマハと競り合い、83年、85年、87年、89年にライダースタイトルを獲得している。
VFR750R(RC30)は、チタンコンロッド、アルミタンクにFRPカウルなど豪華装備を満載。即レースに参加できるほどの実力を備える。148万円というバーゲンプライスで1987年夏に国内1000台限定で登場し、即完売した。
80年代には、アンダー400ccでも数々の代表作が生まれた。
4スト勢では、CB900F/750Fの流れを汲むデザインとDOHC4バルブ空冷直4が魅力のCBX400F(81年)、2スト並みの35psを誇った水冷90度VツインのVT250F(82年)、ハイテクのカムギアトレーンV4を積んだVFR400R(86年)、同じくカムギアを直4に採用したCBR400RR(88年)etc……。
2ストでは、市販レーサーRSと並行開発したNS250R(84年)に続き、ヤマハ・TZR250を打破すべくNSR250R(86年)を投入。圧倒的な実力と人気を博し、2ストレプリカの決定版として大ヒットを飛ばした。
VT250Fは、NR500で得た技術を注入したDOHC4バルブ90度Vツインを搭載。最高出力発生回転数は1万1000回転と驚異的だった。125並みのスリムさで女性にも好評。大ヒットしたヤマハ・RZ250の対抗馬として登場し、RZを上回るベストセラーを記録した。
“負けず嫌い”のホンダが持てる技術を結集したNSR250R。新開発の水冷2スト90度Vツインは排気デバイスのRCバルブを備え、幅広いパワーバンドを獲得。目の字断面アルミフレームもレーサー譲りでクラス最軽量の125kgを達成した。以降も年々、進化を重ね、プロアームやカードキーも導入された。
90年代も多彩なジャンルでヒット作を連発
90年代に入ると、軽い車体とリッターマシンに迫るパワーを融合し、現代の「スーパースポーツ」の元祖となったCBR900RR(92年)がデビュー。同年、4ストWGPマシンのNR500譲りとなる楕円ピストンを用いたNRが登場し、520万円のプライスでも話題を呼んだ。
カワサキ・ゼファーが皮切りとなったネイキッドブームにもいち早く対応し、92年4月にCB400スーパーフォア、同年11月にCB1000スーパーフォアをリリース。1000は98年に1300化され、ともに2021年現在にまで続くロングセラーとなっている。
最高速マシンのジャンルでもホンダが気を吐いた。長年の盟主だったカワサキ・ZZ-R1100に対抗し、CBR1100XXスーパーブラックバード(96年)を開発。世界最高性能を標榜し、当時最強の164PSで実測300km/hに迫った。
様々なジャンルで先駆者となる場合も多いが、ライバルをよく研究し、後に決定版となるモデルを投入するパターンもままある。こうした隙のない商品展開も王者ホンダらしい。
新発想の「トータルコントロール」を掲げたCBR900RR。排気量893cc、最高出力124psは一見、中途半端だが、当時の1000ccクラスより40kg以上軽い185kgの車体を実現。全てはコンセプトを達成するための設計だった。
CB400スーパーフォアは、空冷直4のゼファーに対し、CB-1をベースとする水冷直4を採用。スポーティさと実用性を両立し、ベストセラーとなった。99年にはハイパーVTECを採用するなど熟成を続け、2021年現在、400クラス唯一の直4マシンとなる。
CBR1100XX(写真は2001年型国内仕様)。2軸バランサーを採用した新設計の1137 cc水冷直列4気筒エンジンは、当時世界最高の164psを達成。優れた高速安定性能が魅力で、スズキのハヤブサが登場するまで最高速キングに君臨した。
CB、CBR、カブ……現代もラインナップの充実度は最強
そして現在。業界をリードし続けるホンダだけに、国内4メーカーでラインナップ数は最多。全ジャンルを網羅している。
他社ではモデル数が減少した50ccスクーターから、1833ccの豪華クルーザーであるゴールドウイングまで、まさに多種多彩だ。スポーツモデルでは、先述のCBR900RRが進化し続け、現在は最新のCBR1000RR-Rがトップエンドに君臨。最高出力は驚異の218ps(初代900RRから94ps増!)をマークする。CBRは、ネイキッドのCBと並んで、様々な排気料帯に設定される代表的なシリーズだ。オフロード系では、CRF1100Lアフリカツインを筆頭に、レーサーを含むCRFシリーズが展開されている。
変速が素早いセミオートマのDCT(デュアルクラッチトランスミッション)を2輪で唯一採用し、スポーツモデルに採用するなど、先進的な機構にも注目だ。
近頃は125ccクラスへの注力ぶりも凄い。
2018年にクロスカブ50/110を発売すると、同年にモンキー125とスーパーカブC125、2020年にCT125ハンターカブ、2021年に新型グロムと新作ラッシュが続いている。これらは東南アジアが主なマーケットだが、国内でも大人気だ。
さらに、スクーター系ではPCX125、250モデルではレブル250が大ヒット。ハイブリッドのPCX e:HEVなど、新時代の電動バイクへの目配りも忘れていない。
CT125は、名車ハンターカブの現代版。20年の発売以来、大ヒットで品薄が続いている。
レースもやはり強い。世界GPでは、1990年代にマイケル・ドゥーハンが94~98シーズンの500ccクラスを連覇。2000年代は、バレンティーノ・ロッシが01~03年のタイトルを穫り、近年は13年にマルク・マルケスが20歳266日で最高峰クラス最年少タイトルを獲得した。さらにマルケスは19年まで6回も年間タイトルに輝くという無類の強さを見せている。
世界モトクロス、トライアルでも勝利を重ねるほか、13年にワークス活動を再開したパリダカで20年に勝利を挙げている。
20年に負った右腕の骨折により長らく欠場していたマルク・マルケス。21年6月現在もケガの影響が残るが、第8戦ドイツGPで2年振りの優勝(通算57勝)を達成した。
まとめ:世界一のメーカーらしく安心、堅実
規模、販売台数ともにバイクのトップブランドであり、総合メーカーのホンダ。その歴史は挑戦の連続であり、バイク史にも密接に深く関わっている。
また、長い歴史を活かし、カブ、CB、VFR、モンキー、ベンリィなど傑作のネーミングを継承したモデルも数多い。
耐久性や安全性に関する社内基準が高いと言われており、トップメーカーの名に恥じない商品性も魅力だ。手堅く、圧倒的なブランド力と信頼性に裏打ちされた製品は、まさにホンダならではだ。
[キャンプションのない画像は全て本田技研工業株式会社より】
他の4大メーカーの歴史についても執筆したので、興味がある人はぜひ読んでみて欲しい。
投稿者プロフィール
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ふだんフリーランスとして、主にバイク雑誌の編集やライターをしている沼尾です。
1989年に2輪免許を取得し、いまだにバイクほどオモシロイ乗り物はないと思い続けています。フレッシュな執筆陣に交じって、いささか加齢臭が漂っておりますが、いい記事を書きたいと思っているので、ご容赦ください。趣味はユーラシア大陸横断や小説など。よろしくお願いします。